1.岩田アニミズムの構造
岩田慶治は「アニミズム」の思想家である。ただし、岩田の説く「アニミズム」は、E・B・タイラーが『原始文化』で提起した「アニミズム」概念を超えるものであり、そのためここでは岩田慶治の説くアニミズムを仮に「岩田アニミズム」と記述することにする。
タイラーによるアニミズムの定義は、「動物や無機物、山や川といった風景単位にいたるまで、物理的な要素とは別に、霊的な存在が宿っているという信仰」である。アニミズムを、宗教的な進化論の一段階として捉えるものだ。岩田は、タイラーのように、アニミズムを「原始的な信仰の一形態」として、外部から定義するのではなく、アニミズムを生きるとはどういった在りようなのかということを内在的に思索する。そのことを通して、謂わば「来るべき存在論としてのアニミズム」を探求するのである。

そのような探求のなかで、岩田は、アニミズムをどう捉えなおしているのだろうか。岩田による「アニミズムの構造式」は、ごくシンプルなものだ。
それは、「<柄>と<地>の二元構造を一元的に生きることを通して、森羅万象がそれぞれに呼応しあう場所が開く」とまとめられる。
ただ、これだけではいかにもわかりづらいし、誤読を招く恐れもある。例えば、「二元構造を一元的に生きる」というのは、「二元構造をメタレベルで包括する一元的な原理を掴む」という弁証法的な操作であると誤読されがちだがそうではない。「二元構造を一元的に生きる」とは、<反>を媒介にして正→反→合となる弁証法の操作を行うことではなく、あくまでも二元は二元のまま、<非>を媒介にして、正→非→異と、異に当たる第三項が無数に生みだされていく一元的=中性的な空間を開くということなのである。その場合、自身も特権化(主体化)されることなく、その多数性の一項として、多なるもの=森羅万象と呼応しあうことになる。

さてしかし、「<柄>と<地>の二元構造」とは、例えばどんな構造なのか。「二元構造を一元的に生きる」とは、具体的には、どんな体験、生き方であるのか。
岩田慶治は、フィールド体験でつかんだ直観を螺旋的に深めていくタイプの人類学者であり、概念を演繹的に展開するタイプの哲学者ではない。岩田アニミズムを理解するには、岩田のその行き方に沿った方がよい。そこで自ずと腑に落ちてくるという「分かり方」が、岩田アニミズムを「理解」する、もっとも実践的な方法論であるようにも思われる。


2.多様な二元構造
岩田慶治は、伝承社会のフィールドワーク、仏教(主に道元『正法眼蔵』)・文学のテキスト等、多くの事例のなかから、様々な「二元構造」を引き出してみせる。何か所か引用しよう。

2-1.人の空間/神の空間→祝祭体験による一元化

「東南アジア地域にはーそして日本にもー村ごとに社があり、祖先神を祀っている。年に二回の祭りがあり、そのとき神が降臨するといわれている。しかし、日ごろは、社のなかはガランドウなのである。不在の空間がそこにあるといってもよい。
文化によって充たされた空間と文化の及びもつかない空間、神の空間、あるいは不在の空間がそこに開かれているという点において、民族社会の空間構造は絵と余白、柄と地のそれに似ている。そこには普段は二元空間の場であって、祭りの日に、祭りに参加する人びとにとってだけ、それが一元空間になるのである。
そのとき、その村の人びとには天と地が同時に見えているはずである。コスモスが見えているといってもよい。」
~『木が人になり、人が木になる アニミズムと今日』(人文書館) 「第四部 コスモスの構造」108‐109


ここでは、「文化によって充たされた空間(=人の空間=存在の空間)」/「文化の及びもつかない空間=神の空間=不在の空間」の二元構造が、「祭りの日に祭りに参加する人びとにとってだけ」一元空間となると述べられている。
神と不在とが等置されていることからもわかる通り、神の「正体」などは問題にされない。ここで重要なのは、神がいるということ、不在があるということ、日常に非日常が対置されているという二元構造そのことなのである。
そして、それが祝祭体験において「一元化」される。二元構造を一元的に生きる、とは、祝祭的なエクスタシーのなかでのみ実現される、と説かれる。

2-2.聖/俗→回心(悟り)体験による一元化
「まずは聖俗二元の世界があり、次いでさらにその彼方に、聖俗一元の、あるいは聖俗以前の世界があるということ。つまり、すべての文化の核心には聖俗一元の、生きて働く原始の場所があり、生そのものの根源の場所があるということ。異なる文化をその核心において理解するためには、どうしても、この場所に至りつかなければならないであろう。
ジェームズは<一度生まれの人>と<二度生まれの人>について言及している。それは要するに回心の経験について述べているわけである。しかし、回心といい、悟りといっても、その実体はきわめて多様である。もちろん、ひとくちに多様であるといってしまっては具合の悪い面もあるが、稲をつくるひとの回心もあり、小川に魚を捕るひとの回心もある。その深さ、浅さはきわめて幅広い。花を見つめて浄福のいのちを感ずるのも回心であるし、高僧知識の悟りも回心である。いずれにしろ、回心は内部と外部との直接無媒介の触発によってあらわれる。そうすると、たとえそれがどれほどささやかなものであっても、回心の経験を聖とすれば、ひとは自らのうちに聖俗の二つを持ち、また、聖俗以前の己れのありかを予感しているのである。」
~『著作集二巻 草木虫魚のたましい』(講談社) 『草木虫魚の人類学』  「1.旅と人類学」226


ここでは、ウィリアム・ジェイムズの<二度生まれの人>という言葉が引かれ、文化にセットされた<聖>と<俗>以前の一元的な「境地」の感知が、「回心」「悟り」の体験として説かれている。この「回心」「悟り」の体験は、ここでその例が挙げられているように、さほど特別なものではなく、むしろありふれた体験として捉えられる。この引用個所の後、この「回心」「悟り」の体験は、特に厳しい修行、身体技法を経由する必要はなく、ただ「思い出せばよい」という旨のことを説く―≪われわれがうっかりしていて、それを忘れているだけなのである。「いや、うっかりではござらぬわいの」と盤珪国師がおっしゃるかもしれないが。≫とユーモラスに表現している。
別のところで、岩田は、伝承社会にいきる人びとは、そもそも全員が「さとっている」と論じているが、それも、ここで言われていることと通じる。ジェイムズの『宗教的経験の諸相』で取り上げられている多くの事例も、ある、ふとしたきっかけで、「ごく普通の人びと」に「回心」の体験は訪れている。岩田がよく引用するプルーストの「マドレーヌ体験(無意志的想起の体験)」もまた、ある種の「回心」の体験と捉えてもよいだろう。

2-3.対象/背景→モチーフをつかむこと=制作による一元化
この引用個所では、岩田が小林秀雄の批評文『近代絵画』を引用し、それについてコメントしている。まずは、小林秀雄『近代絵画』の引用個所をそのまま孫引きする。
「或る日、セザンヌは、ギャスケの前で、モチフを掴んだと言って両手を握り合わせた。モチフとは、つまり、これだ、と言う。(中略)こういう具合にモチフを捕らえる。こうならなくては、いけないのだ。上に出し過ぎても、下に出し過ぎても、何もかもめちゃくちゃになる。少しでも繋ぎが緩んだり、隙間が出来たりすれば、感動も、光も、真理も逃げて了うだろう。解るかね。私は、自分のカンヴァスを同時に進行させる。何処も彼処も一緒に進行させる。ばらばらになっているものを、取り集めて、凡て、同じ精神の中に、同じ信念の中に、ぶち込むのだ。私たちの見るものは、皆ちりぢりになる。消えて行く。そうではないか。自然は常に同じだ。しかし、何一つ残りはしない、眼に這入って来るものは何一つ残りはしない。自然はその様々な要素とその変化する外観とともに持続している。その持続を輝かすこと、これがわれわれの芸だ。人々に、自然を永遠に味わせなければならぬ。その下に何があるか。何もないかも知れない。或は何もかもあるかも知れない。解るかね。こんな具合に、私は、迷っている両手を組み合わす。私は、左から、右から、此処から、彼処から、何処からでも、色調や色彩や影を持って来る、そしてこいつを固定する。一緒にする。すると、線が出来る。物になる。岩になる。樹になる。そうしようと考えているわけではないのだがね。そいつ等が、自ら量感を装う、明度を手に入れる。そういう私のカンヴァスの上の、量感と明度とかが、私の眼前にある面とか色の斑点とかに照応するなら、しめたものだ。私のカンヴァスは両手を握り合わせた事になる。ぐらつかない。上にも下にも行き過ぎない。真実であり、充実している。だが、もし、少しでも気が散ったり、気が弱くなったり、特に、或る日写し過ぎたと思えば、今日は昨日と反対な理論に引きずられたり、描きながら考え込んだり、要するに私というものが干渉すると、凡ては台無しになって了う。何故だろう。」
この引用個所に対する岩田のコメント。
「セザンヌのいうモチフ、それを無私の精神でつかまえる。しっかりと握りしめる。そうすると線ができる。岩になる。樹になる。<もの>になる。セザンヌがモチフをつかまえるのか、モチフがセザンヌをつかまえるのか。いずれにしろ、ものの本質、ものの姿をとらえるこの方法が、そのままではないにしてもフィジオノミーのそれと同質のものであることは疑えないように思う。科学の方法からはすべり落ちてしまったものが、芸術的創造の核心として生きのこり、生きつづけていたのである。」
~『著作集二巻 草木虫魚のたましい』(講談社) 『草木虫魚の人類学』  「5.草木虫魚の世界」405-406



3.「二元構造を一元的に生きる」ということ=世界と「制作的にコミットする」ということ
さて、岩田慶治が挙げる二元構造は、上記の箇所にとどまらない。多様な二元構造を挙げていくなかで、岩田アニミズムの世界像の解像度が上がっていき、その世界観を生きることが、例えばディープエコロジーが問題にするような倫理的要請にも適う生き方であることが、自ずと腑に落ちてくる。アニミズムという世界像の倫理的可能性については、この小文の主題からは外れるので、稿を改める。
岩田アニミズムの構造をまとめておくにあたり、最後に、「二元構造を一元的に生きる」という経験について、それがどんな経験なのかを定式化しておく。
2で、「祝祭体験」「回心(悟り)体験」「制作体験」と、「二元構造を一元的に生きる」ための体験を3つ挙げた。これ以外にも、例えば「遊び体験」「原風景の想起体験」「禅定による心身脱落体験」など、まだ多くの「体験」が論じられるのだが、そのすべてに共通するのは、それが意志的かつ創造的な体験であること、エクスタシーあるいは変容意識状態を伴う体験であることである。これを一言でいえば、「制作的な体験」であるということになる。「制作的な体験」とは、無私の創造性のなかで、自らをメタモルフォーゼして「作品」に結像するということである。そもそも岩田アニミズムとは、自らを「作品としての森羅万象」にメタモルフォーゼさせる、即ち「木が人になり、人が木になる」世界像を開くものなのである。