1.汎社会論と対としての今西進化論
西田哲学を援用しつつ構築したその独自の多元的汎心論に基づき、今西が提唱した汎社会論については、個/種(の社会)/生物(の社会)=生態系といった定式で集約しておいた(今西錦司の汎社会論)。
この汎社会論において、個は種と表裏一体、相互包摂の関係にあり、種と生態系もまた表裏一体、相互包摂の関係にある。今西進化論は、この汎社会論と対で捉えられねばならない。

個は個として生きるのだが、あくまでも種との相互包摂において存在する。ひとりひとりの人間がいかに「自由」だとはいっても、「さあ猫になろう」と言ってすぐに猫に変身できる「自由」はない。
そして、種は生態系との表裏一体としてある。その生態系は「すみわけ」を基本原理として、動物の場合は部分的に捕食ー被捕食関係のカップリングが成立する、そういう「場」のことである。
個/種/生態系は、双方向に規定しあっており、だから、そうした今西の立場からすれば、進化ということも、例えば突然変異説等の「個に寄った理路」は、この種の論理を汲み取れていないものだということになる。
すでにある有機物が最初の生物に変わるとき、そこに一個の生物だけができたのではなくて、同時に複数の同じような生物の個体が生まれたように、その後も複数の種個体が複数の種個体に、かわってゆくものでなければならない。種個体というのはでたらめな存在でなく、同じ種個体の複数的存在によって、種個体というものを支えているのだから、種個体がかわるときには、みな同じように変わるのでなければならない、それがもし、でたらめに変わるようなものだったら、種社会というものがばらばらに崩壊してしまうからであります。
『社会と個体・社会進化と個体進化』

2.二つの進化論
今西は、ダーウィニズムの流れをくむ正統派進化論と、自分の進化論には、ある重要な違いがあるとする。
ここに二つの進化論がある。その一つは、ランダムな突然変異に基礎をおいた進化論であり、これがいわゆる正統派進化論である。もう一つは、方向性をもった突然変異に基礎をおいた進化論であって、私が二十年以上まえから、主張してきたものである。
「私の進化論」

正統派進化論は、主客の分離を前提として、主である個体がランダムな突然変異を繰り返すことで、客観的環境のなかで適者生存が選択されるとする。だが、今西進化論では、まず、そもそも主客の分離が前提されていない。
今西の説くところをもうすこし見てみよう。

さて、この二つの進化論には、さらに二つの重要なちがいが含まれている。ランダムな突然変異に基礎をおいた進化論は、個体間にはたらく自然淘汰をもってこなければ、理論的に完結していないけれども、方向性をもった突然変異に基礎をおいた進化論は、個体間にはたらく自然淘汰をもってこなくても、それ自身のうちに理論的な完結性をもっている。この点は大きな違いである。
同上

もう一つのちがいというのは、ランダムな突然変異に基礎をおく進化論というのは、もともと個体の変化から種の起源を、あるいは生物の進化を、説明しようという立場である。これに対して、方向性をもった突然変異に基礎をおいた進化論は、種の変化から種の起源を、あるいは生物の進化を、説明しようとする。すなわち、種とは、環境に適応するため、たえずみずからを作りかえることによって、新しい種にかわってゆく。これが進化であるとすれば、進化とははじめから、種レベルでおこる現象であるというのである。
同上

今西進化論では進化の「単位」が種であるということが言われている。今西においては、個は個/種の表裏一体として現象する。当然の帰結として、進化の単位は個/種であり、種と切り離された個がランダムに突然変異して自然淘汰によって最適化される、という考え方は受けれ入れられない。

そもそも個が個としてランダムに振る舞い得る、そして客観的自然のなかで淘汰圧が働き適者生存することで進化の方向が決まる、これは、種とも環世界からも切断された抽象的な個が、主体として単一の客観的世界に対峙している、という近代的な世界像を前提としたものだ。
だが、今西にとって、個はあくまでも個/種であり、そうだとすると、進化とは、個/種の内発的創造性を想定しないと成り立たなくなる。

この今西の世界像は、生命現象が内部記述的にしか捉えられないという、現代の情報論的な生命哲学にも通じるものであると言える。すくなくともその世界像としては、今西の議論は、先見的なものだ。
この今西進化論のエッセンスは、柴谷篤弘を経由して、池田清彦らの構造主義生物学にまで引き継がれ、ダーウィンvsラマルク、ドーキンスvsグールドといった進化論論争の構図のなかで、重要な視角を提示している。

3.共進化
全集第二巻「人類の誕生」ーこれは人類に普遍的な文明史を素描した論考だが、ここに「植物が人間に歩みよる」と題された一節がある。
野生の禾(イネ)科植物は、もともと実ると、その穀粒がバラバラと地に落ちる性質があった。その方が散種に適しているからだ。北アメリカの大湖周辺に住む原住民がマコモの実を拾い集めるのと同じように、当初、人類は、麦や稲の実を拾い集めていたものと思われる。だが、農耕が始まると、実を拾い集めるより、穂を刈り取った方が効率がいい。
穀物が熟してバラバラ地に落ちるのは、野生植物に備わった環境への適応性だったが、これは人間による農耕という新しい環境においてはもはや無意味なものとなってしまう。
「そこで、いつのまにか、穀粒が熟してもおちないようになった」と今西は言う。穀粒の脱落性が非脱落性に変わっていった。
これを野生植物の栽培化といってもいい。しかし、ここで注意すべきことは、栽培化といっても、人間のほうで脱落性の野生種の中に、たまたま突然変異で生じた非脱落性のものを見つけだし、それだけを選択的に栽培することによって、意識的にふやしたものではけっしてないということである。
事実は、脱落性の穀粒も非脱落性の穀粒も、同じように穂刈りされ、区別せずに播種されていたにもかかわらず、しだいに非脱落性に変わっていったというのだから、これはむしろ、植物のほうでみずからすすんで変わったのだ、といったほうが正しいのである。
『人類の誕生』

ここでは、禾科の植物と人間との「共進化」ということが言われている。
最近一部の人類学から、家畜は人間の「道具」として一方的に扱われてきたわけではなく、むしろ共生のすえ、共進化してきたのだという視点が提示されているが、今西によれば、人間と植物も、農耕において共進化してきたのである。

4.「立つべくして立った」ー今西進化論における「同時性」の問題
3の「共進化」というトピックは、今西生態学のポイントが集約されている現象だ。
今西生態学では、種は<図>として、その環境=<地>において存在すると考えられるが、その環境=<地>とは、「静的な背景」ではなく、多種多様な生命種、物質が相互に牽制し合う、動的な混合体である。
だから、或る種が別の或る種に関わるとき、その種間では、相互に相互を環境=<地>とする適応(=応答)が為されている。
狩猟や農耕、牧畜において、人類が、特定の或る種を選んで捕食するとき、その種もまた「人類の捕食」ということを自らの環境に組み込んで「適応」するということである。

この「共進化」という現象をさらに考えていくと、今西の有名な言葉、人間の二足歩行の起源ー「立つべくして立った」という言葉に繋がっていく。
種の進化は、環境との絶え間ない牽制、相克、棲み分け、相即というダイナミズムのなかで起る。或る特定の種だけにフォーカスして考えてもわからない。

岩田慶治『木が人になり、人が木になる。アニミズムの今日』に、今西研究会に参加していたとき、この言葉を聞いて、この言葉は、科学者たちには評判が悪かったが、自分は「同時という時間のあり方に強くひきつけられた」と書かれている。
ふと気づいて、あたりを見回してみると、あのサルも、このサルも立ちあがっていた。環境や才能にめぐまれたサルだけが立ちあがって、サルからヒトへの進化の先頭に立ったのではなかった。サルが、甲乙なく、同時に立ちあがった。「立つべくして立った」。
私は同時という時間のあり方に強くひきつけられた。因果関係とは違った世界のあり方がそこに開かれていると思ったからである。
『木が人になり、人が木になる。アニミズムの今日』

この「同時」ということをめぐって、同論考のなかで、岩田はこんなことを言っている、-
投げ矢を投げるという行為、つまり原因が、的に当たるという結果を生みだす。それに違いないようだが、でもホントにそうだろうか。そうじゃないのではなかろうか。
投げ矢を投げる前に、矢はすでに的に当たっていたのではないか。もともと一つだった矢と的が、そのときもとにもどった。
目に見えない糸に引かれるように、自分の故郷にもどるかのように、矢は一直線に的を目指して飛んだ。
同上
ここで岩田が、今西の言葉に同時性、即ち「因果にかかわらない世界」を見出しているのは、非常に重要なポイントだ。このポイントに注目することで、今西進化論を、現在的な実在論に接続する、強い理路が得られるだろう。
在るものは在り、したがって、起こることは起こる。…

5.今西進化論における「美」の問題
3、4で書いたように、進化とは、そもそも「多種多様な生命種、物質が相互に牽制し合う、動的な混合体」のなかで、自らの位置を占めようという生物の内発的な動機をもって実現される。
だが、それだけだろうか?と、今西は疑問を呈している。
生物もしくは生物の社会というものの中には、ただ単に生きんがためということをもってしてはどうしても解釈できない一面があるということを、ここで素直に認めておきたいと思う。その一面とは生物が意図するとしないとを別として生物が次第に美しくなっていった、よく引き合いに出される例でいえば、中生代の海にすんだアンモン貝の貝殻に刻まれた彫刻が、時代を経て種が生長するにしたがい次第に緻密に繊細になって行ったというが、そこにいわば生物の世界における芸術といったようなものが考えられはしないであろうか。もちろんわれわれ人間の場合と同じではないが、そこにいわば生物の世界における文化といったものがあるのではなかろうか。
『生物の世界』

今西は、問いを提示するにとどまり、全面展開はしていないのだが、文脈を読めば、つまり、生物は世界の潜在データから「美」を取り出し、それはおそらくは性淘汰圧に促され、同種の異性を魅惑するための動機をもつが、その動機を逸脱する普遍性を獲得しているのではないか?ということになる。

今西は、最初期の『生物の世界』で、自らの汎心論的な世界像をほとんど完成させているが、「心」が「心」である根拠に、単に生存への適合性、つまり個の生命を守り、拡張するという要請にとどまらない過剰性を見出していたのに違いない。その過剰性の一側面が、例えば「美」なのである。

個/種/生態系といった汎社会論ということが、そもそもAという種が存立するために、別の位相にBという種が存在しなければならないという、位相空間における共存立の論理とみなさねばならないが、ここで、今西が示唆した「美」とは、どんな種の身体(感覚)にも還元されることのない、位相空間を通約するロジックのあるひとつの現れだったと考えることはできないか。

この一節は、すこし今西と離れた話になる。今西の生物のカルチャーとしての「美」という考え方を敷衍してみよう(まだ生煮え状態の思考なので、とばしていただいても構わない)。
もし美が、「汎社会」に根拠を持つのだすれば、ロゴス的には捉えられないが、それは本来、個/種/生物の相互包摂性のうちに現れる、ある意味非常に「厳密」なものである。その「厳密性」は、しかしそれぞれの種の身体=視点=パースペクティブによって偏向し、主観化の度合いに応じてボケている。とはいえ、“身体に即して現れる”、自然物の美は、やはり非常に解像度が高い。人間の、特に「美」というフレームが与えられたところでの美は、もはやほとんど美ではない。ほとんどの場合、人間の美的営為は、動植物の美的営為に比較して、強度が低すぎる。
だが、人間には、種を超えた「原理」に届く可能性が備わっており、どんなバイアスもかかっていない美を実現する可能性をもつ。例えば、「華厳経」等は、人間が実現した最も完成度の高い美の一事例ではないだろうか。…


附:今西自然学の「リベラリズム」
さて、今西の「種の理論」は、「個は個としてではなく、また種は種としてではなく、個/種が表裏一体として現象する」という基礎のうえに、すみわけ現象を普遍的な理論に練り上げ、さらに進化論に生命の創発性を認めるという展開をみせる。
今西は「全体主義的」と批判されることもあったが、これは「個/種の表裏一体」を「種による個の包摂」と誤解したところで為された批判に過ぎない。むしろ「社会的」な観点で見るなら、今西の個/種の考え方は、非常にラディカルなリベラリズムにつながる。

例えば、今西的な視座からは、家族ー社会ー国家という集合単位は、歴史的に偶発的なものにすぎず、生物としての人間にとって必然的なものではまったくない。
私は核家族がサブユニットになった社会から、女性が単独生活能力を獲得したことをとおして、単独生活能力をもった個人単位の社会に移るであろうという、ひとつの未来を描いてみたのですが、ひとによりましては、個人単位の社会なんていいますと、孤独で、疎外されたみたいに思う方もあるかもしれませんが、それは間違いでありまして、男女とも家族というものから解放され、単独生活能力をそなえたものにして、はじめて群れというものがつくれるのである。そこまでゆけばみなさんは好きなようにいろんな方と群れをつくられて、そのどれか一つの群れに属するというのではなくて、いろんな群れに自由に参加されて(…)おおいに楽しんでもらったらいいのではないだろうか。

そうなりますと、もちろん、セックスのほうもフリーセックスにならざるをえないのでありまして、(…)、たとえばテナガザル型のオス一、メス一で群れをつくろうというご希望の方はそのようになさったらよろしいし、それからニホンザルみたいにオス多、メス多の群れでゆこうというのでもかまわん。(…)もともとセックスに関する行動は、育児なんかとちがい、個体本位の行動なんです。それは個人のプライバシーに関する問題なんですね。そんなことまで法律で取り締まろうというのは、怪しからん話で、個人の責任において個人の自由にまかせておいたらよいのであります。