1.汎社会論(個/種(の社会)/生物(の社会)=生態系)
前の記事で、「今西錦司の多元的汎心論」と題して、今西の基本的な存在観、生命観について述べた。この基本的な存在観、生命観に基づいて、今西は、すべての生物は個/種(の社会)の表裏として存在し、またすべての種は、種/生物(の社会)の表裏として存在する、という「汎社会論」を構想した。
「汎社会論」は、個/種(の社会)/生物(の社会)=生態系と定式化できるだろう。
この≪/≫は、あくまでも「表裏」ということであり、例えば、種の社会が個を包摂する、生物の社会が種を包摂する、というホーリスティックな関係にはない点、注意が必要である。この「表裏」であるということ、即ち「相互包摂性」を見誤ると「今西は全体主義的(ホーリスティック)である」という誤読が生じる。
以下に、すこし詳しく今西の論述を追ってみよう。

今西全集第五巻「人間以前の社会」から引く。
社会のないところに個体はなく、個体のないところに社会はない。社会と個体は二にして一のものである。
だから、社会と個体という問題を取りあげる場合に、社会を重視して個体を軽視する立場をとることも、個体を重視して社会を軽視する立場をとることも、どちらもこの問題を解くための正しい立場をとっているとはいいがたい。

社会は個を包摂するものではなく、個が社会を構築、主導するものでもなく、個と社会は相互規定的、或いは相互包摂的に存立する。今西が「社会」というときは、必ずまずその相互性を前提にした「場」が想定されているのである。
これを、凡ゆる個物は、必ず、その個物を成り立たせる共同性と相互規定的に存立する、と敷衍してもよい。
今西は、この自分の立場を指して「汎社会論」と呼んでいるのである。

そして、「汎社会論」が成り立つ、その根拠について、今西はこんなふうに論じている。
そもそもこの世界を形づくっている、もろもろの構成要素の中に、たった一つきりしか存在していないというようなものは、じつはどこにもないのです。無機物の世界というものが、すでにそうなのです。だから有機物の世界だってそうならざるをえない。
ある特殊な有機物がある特殊環境条件のもとにおいて、はじめてこの地上最初の、ごく単純な生物に変化したときのことを考えてみても、それはある複数的な有機物の構成単位が、同じく複数的な生物の構成単位、すなわち生物の個体に変化したものにちがいない。
(…)要するに、この地上のどこかに、最初のある種の生物が出現したときから、生物の種というものは、すでに複数的個体を、その構成要素として成立していた、ということなのであります。
「社会と個体・社会進化と個体進化」


今西の進化論については記事を改めるが、この理路を押さえて、今西進化論の要諦をのみ、ここで先取りしておく。今西の立場からすれば、進化ということも、例えば突然変異説等の「個に寄った理路」は、この種の論理を汲み取れていないものだということになるということである。
すでにある有機物が最初の生物に変わるとき、そこに一個の生物だけができたのではなくて、同時に複数の同じような生物の個体が生まれたように、その後も複数の種個体が複数の種個体に、かわってゆくものでなければならない。種個体というのはでたらめな存在でなく、同じ種個体の複数的存在によって、種個体というものを支えているのだから、種個体がかわるときには、みな同じように変わるのでなければならない、それがもし、でたらめに変わるようなものだったら、種社会というものがばらばらに崩壊してしまうからであります。
同上

さて、個と社会が表裏ということは、つまり個=項と社会=社会の二元が一元として捉えられる「場」がこの現実の時空であるということになる。この今西の視点からは、当然、個/種だけでなく、種間の関係においても、そこには同じ論理が働かなければならないということになる。
つまり種間には、生態系という「生物の社会」がそこに見出されねばならない。
ここに、先述した、
個/種(の社会)/生物(の社会)=生態系
の公式が成り立つ。

2.人間の社会の特殊性
さて、人間の社会については、しかし、この「生物の社会」から逸脱する過剰な構造をもったことを、今西は指摘する。
プリミティブな人間社会では、生物社会から人間社会への進化といっても、一つひとつの社会はどれをとっても「単層社会」だった。
これはつまり、人間といえども、「生物の社会」において他種と同格である種のひとつであり、つまり、生態系においてひとつの地位を与えられ、その位置を逸脱するものではなかった。
個/腫はさらに「生物の社会」と同期して、人間以外の動植物、その多種間で単層的な均質性を保っていた。

だが、文明社会は、農耕による富の蓄積、その偏り、その富を巡る争闘から要請される軍隊の発生等により、人間社会における個の役割が分極化して、その結果人間の社会は「共同体化」した、と今西は仮説を立てる。「生物の社会」の「おきてをやぶって」、人間社会は「いまやそれ自身の中に共同体をつくりだした」。
この共同体化は、混乱をふせぎ、これを整理するための階層化をも、当然ともなったであろうから、それは同時に単層社会から重層社会への進化でもあった。
そしてまた、この共同体化した社会に統合を与えるため、政治がおこなわれ、その政治が農地までもおおって、ここに国という、より立体化し、より組織化された社会単位も生まれる。
今西は、この、人間の社会の「共同体化」即ち、人間という種が「生物の社会」から逸脱したことをもって、人間の「進化」の決定的な契機であった、と論じる。

今西のこのストーリー自体は、あくまでも仮説の域を出るものではなく、あるいは今後の考古学の発展やより包括的な文明論の提示に伴い、覆される可能性も残している。
しかし、人間とは、個/種(の社会)/生物(の社会)=生態系の「単層社会」から逸脱して、社会のなかにさらに共同体を作るという「重層社会」に生きる存在である、という存在観自体は、一定の普遍性をもつと思われる。
例えば、吉本隆明が『心的現象論』で展開した疎外論も接続し、より膨らみのある議論が展開されうるだろう。

ところで、これは今西自身は論じていない、私の補足的考えなのだが、人間の社会が「共同体化」して、「生物の社会」から逸脱して以降、おそらく人間の社会のなかには、後に近代に繋がる「進歩」へのベクトルと、「生物の社会」とバランスを取ろうとするベクトル(「社会の生理」「神話的知」等)との葛藤を、常に抱えていたのではないか、とも思われる。
近代とは、いわば、この葛藤の「暴力的な解決」であり、文明社会においてもかろうじて保たれていた「生物の社会」との接点を、決定的に切断してしまった時代なのではないだろうか。

3.アイデンティフィケーション
さて、汎社会論を踏まえて、今西は、生物のアイデンティフィケーションを問題にしている。
個/種の社会/生物の社会=生態系の相互包摂のなかで、なぜ、種は種であり、個は個であるのか、という問題である。

今西全集、第七巻「ニホンザルの自然社会」に含まれる「トリ・サル・人間ーアイデンティフィケーションを支える一般理論は可能だろうか」の章で、今西は初めて生物の「アイデンティフィケーション」について論じている。
動物と環境との関係は、動物が環境の中に生きていこうとするかぎり、すくなくとも生きるに必要なだけの環境は主体化されねばならない。
環境の主体化とは、つまり個体/種に応じた環世界の形成を指す。
即ち、他種とのすみわけ関係の形成、捕食ー被捕食のカップリングの形成、同種他個体との生殖関係の形成という具合に、関係の形成を通して環境を主体化する。
そして、今西の汎社会論の当然の帰結として、
環境の主体化は同時に主体の環境化である、ということになる。

私の立場からいうと、アイデンティフィケーションというのは、もともと環境を主体化するためのはたらきかけであり、それが同時に主体の環境化としてのインプリンティングである。

さらに、今西は議論を進める。
しかし、これだけではたして環境の主体化がおわったのであろうか。そうではない。
インプリントされ、主体の中にとりこまれた環境が、必要に応じてレパートリーの中からもう一度取り出され、それが主体のために役立つのであってこそ、ほんとうに主体化された環境であり、環境の主体化ということもそこまでゆくのでなかったら、なにも声を大きくするには及ばぬであろう。
つまり、環境の主体化は、主体の環境化と表裏で実現され、そこに個体のアイデンティフィケーションが成立するが、アイデンティファイされた個体によって、さらにその事況を「レパートリー化=背景化」するところに、固体の能動性といった意味で真のアイデンティフィケーションが成立する。

こうして理路を取り出してみると、例えば、現在、郡司ペギオ幸夫が問題にする「主体の能動性は如何に可能か」ということと、殆ど同じことが解かれようとしていると考えられる。
郡司は独自の「記号化・脱記号化」の転回ー操作によって、私の「このわたし」性を析出する。「このわたし」性は、「純粋な記号」であり、「純粋な記号」はいかなる物象化も必要としない「自己指示性」である。
だが、その「自己指示性」は、ポストモダンで取り上げられてきた世界とは独立な存在としての抽象的な自己言及性とは違い、「背景化した文脈」と共にある。
郡司ペギオ幸男『生命、微動だにせず 人工知能を凌駕する生命』(青土社)から一節を引く。
決して世界から切り離されてはいない。自己指示性は、空間の全体、世界の全体を意味しない。それは或る場所、ここ、において継起する運動である。すなわち、或る局所で成立する運動である。
局所を局所たらしめているもの、局所において閉じているかのような指し示しを実現しているものこそ、局所を取りまく文脈である。それは局所からみた外部環境である。文脈の前景化・背景化は、外部環境からの影響が質的に変化することを意味している。

今西の語り口が滑らかで曲折がないので、逆に理路が読み取りづらいが、こうして郡司ペギオ幸男のある種bizarreな論脈を補助線として援用してみると、ここでは、「個が個であることと個が主体であることを“同時に”把捉する」ということが問題にされているのだと理解できる。

今西は、同じくアイデンティフィケーションの現象を扱った理論として、フロイトのそれを挙げているが、今西理論は、フロイト理論とはまったく関係がないと、わざわざ言明している。そして、より広い基盤に立ってより多くの現象を説明できるのはどちらの理論であるか?と半ば挑発的に語っているが、今西の立場からは、フロイトの理論は「人間社会」を「人間関係」に還元したところで構築された、非常に「末端肥大的」な議論でしかないように感じられたのではないだろうか。

さて、ここでは、今西錦司の汎社会論の素描と、その拡張性の一端(生物社会からの逸脱者としての人間という種の特殊性、さらに汎社会論を踏まえた個体ー主体のアイデンティフィケーション)を示した。